即位・大嘗祭違憲訴訟の会NEWS No.20

即位・大嘗祭違憲訴訟の会のニュース20号です。
★ダウンロードはここから → 即位・大嘗祭違憲訴訟の会ニュース20号

即位・大嘗祭違憲訴訟結審
来年 1 月 31 日、判決言い渡し

 いまはもう遠い昔でもある裕仁から明仁への代替わり過程は、とんでもなく強圧的なこの日本国家の政治や社会体制を、否応もなく感じさせるものでした。多くの人びとをさまざまな経過で死に追いやった天皇は、自らの死に臨んでも意味あることを語らず、隠蔽と虚飾の代替わりを迎えました。
 明仁はこの代替わりの経過を好まなかったようで、自分の死による代替わりでなく意識的な「退位」による天皇の地位の移譲をはかりました。それが今回の明仁「平成」から徳仁「令和」への代替わりのプロセスでした。前回のような社会全体への強制は影を潜めたが、しかし今回もまた、政教分離や人民主権などに反する違憲・違法な儀式が挙行されるのは明らかであったので、多くの人びとがこれを差し止めようとしたのがこの訴訟であり、その後、代替わり儀式の強行に対する国賠請求も加えて一体のものとして取り組まれたのです。多くの原告の思いをぶつけていく内容が繰り広げられたことで、自分にとって、学んだこともまた幅広くかつ深いものだったと感じます。
 とはいえ、5年の長きにわたる裁判で、10 月 11 日に行われた当裁判の結審に集った原告の数は、それほど多いものではなかったのは仕方がないことながら残念でした。
 今回は、原告代表として佐野通夫さんが意見陳述を行いました。概略は以下の通り。
1、裁判所が代替わり差し止め訴訟を弁論も抜きに門前払いで敗訴させたことへの抗議。
2、今回の「即位」が、明仁のビデオメッセージにはじまり、これを受けた天皇に対するキテレツな敬語にまみれたいわゆる「退位特例法」の制定によって形づくられたことへの批判。
3、「即位の礼・大嘗祭」が憲法における政教分離と主権在民原則に反するものであることへの批判。
 陳述のなかの白眉は、ほんらい天皇に可能な法的行為は、憲法上の国事行為とされるもの以外にはないにもかかわらず、「象徴としての行為」なるものを明仁のコトバのままに認定していることの問題性・危険性を述べたところです。「象徴天皇」の役割・機能は、きちんと制限されねばならず、例えるならば「おさるの電車」のサルのようなものとして勝手な行動をとることは許されないとしました。この意見陳述では、大日本帝国憲法において天皇が有した権力が不正に行使された例として、関東大震災に際して緊急勅令として発された戒厳令がきわめて悲惨な虐殺までもたらしたことを例示しつつ、天皇の権力の歯止めを緩め外そうとする動きに対して厳しい批判と警告を発しました。
 引きつづきなされた弁護団の意見陳述では、「世襲」天皇の「儀式」である即位礼・大嘗祭が、正しく公的な意味を持ち、宗教的にも問題のない「国家儀礼」とされていることへの批判がなされ、この裁判の判決が、明確な違憲性の指摘という憲法判断を含むものでなくてはならないということが強調され、司法が行政に対するチェック機能を果たすべきであるという指摘で結ばれました。
 裁判の後、報告集会が持たれ、この日の要点が説明されました。その場での傍聴参加者からのメッセージを端折りながらいくつかご紹介します。
力の出る法廷でした / 被告側反論はついに無くてさびしい限り / (原告・弁護団の陳述は)すばらしい憲法論だったと思います。人民の側に立った憲法論を発展された / 陳述、弁論は大変力強い。論旨的にしっかりした論述に感銘を受けました / 今回の陳述を今後の活動に大いに活用したいと思いました / 国側の反論を聞けなかったことは残念。裁判所が、国側の反論を何も聞かないで判決言い渡しをすることは異常 / ……国家権力の暴走を止める運動に敬意をささげます / 皆様お疲れ様です。陳述すばらしかったです。象徴天皇の『象徴』とは、お猿電車の猿や、猫のタマ駅長の役割に近いということ、なるほどでした
 1月 31 日 15 時、地裁 103 法廷での判決に多くの原告が集まられることを!