「人格権に基づく差止訴訟」第5回口頭弁論 3/8

2021年3月8日の「人格権に基づく差止訴訟」第5回口頭弁論において、原告の矢野秀喜さんから、意見陳述がなされました。

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意見書

矢野秀喜

 原告の矢野秀喜です。結審に当たって意見を述べさせていただきます。
 私は、1990年代半ばから、韓国人の元徴用工など戦時労務動員の被害者や、軍人・軍属として戦場に送られた人たちが戦後補償を求めて起こした訴訟の支援を行ってきました。その中で分かったこと、気づいたことを申し上げます。
 労務動員にせよ、軍事動員にせよ、日本が1930年代初めから始めた侵略戦争を「総力戦」として戦うために、不足する労働力、兵士・軍要員を植民地から補充するというものでした。
 日中戦争が長引き、泥沼化する中、兵士の損耗が大きくなり、日本政府はそれを補うために農村、事業所から多くの青年を兵士として徴兵し、戦場に送らざるを得なくなりました。そして、その労働力の穴埋めを、植民地出身者でまかなわざるを得なくなったのです。1939年~1945年にかけて「労務動員計画」を毎年度閣議決定し(1942年からは「国民動員計画」と改称)、必要とされる労働力を、必要とする事業所に配置するために政府-朝鮮総督府が一体となって労務動員を進めました。その数は70万人から80万人に及びました。
 軍人としての動員は、はじめは「志願兵」制度で始めましたが、最後は、それでは兵力補充が追いつかず植民地出身者にも徴兵制を適用するに至りました。戦場に兵士または軍属・軍夫などとして動員された数は30数万人にのぼりました。
 植民地出身者にとっては、日本の戦争は自分たちの国、自分たちの生活とは何の関係もないものでした。すすんで遠い日本に働きに行くことを望んだ人は多くはありませんでした。ましてや日本軍の兵士・軍属として戦場に行くことを希望するなどということはほぼあり得ないことでした(「志願兵」制度も「志願」とは裏腹の強制を大なり小なり伴っていました)。
 このような中で動員を進めるために、日本政府は、「内鮮一体」のかけ声のもとに「皇民化」政策を進めました。神社参拝を強制し、「私共ハ大日本帝国ノ臣民デアリマス」という3ヵ条からなる『皇国臣民ノ誓詞』を毎朝学校で斉唱させました。「内鮮共学」を強調し、日本と同じ教科書を使い、朝鮮語を正課からなくし、日本語常用を強要しました。さらには、天皇家を宗家とする家父長体制に朝鮮人を組み込むために、「創氏改名」を実施し、実に朝鮮人の約80%が日本名に改めたのです。
 そして、それでも容易に動員が進まない中で、様ざまな手法を用い、強制的に動員を行ったのです。
 私は、強制動員された元徴用工、遺族の起こした訴訟の支援に携わりました。1件は遺族が起こした訴訟で、その請求趣旨は亡くなった父親・叔父の遺骨の返還、未払い賃金等の支払いでした。旧日本製鉄・釜石製鉄所に動員され、戦争末期に連合国軍の艦砲射撃で亡くなった朝鮮人徴用工の遺骨は遺族に届けられていなかったのです。未払い賃金なども勝手に供託され、その事実も遺族には知らされていませんでした。遺族たちは、自分の親がいったいどこに連れていかれ、どうなったのか、その生死すら知らされないまま長い戦後を過ごしていました。
 もう1件の訴訟は、旧日本製鉄・大阪製鉄所に動員された元徴用工本人が起こした訴訟でした。原告は未払い賃金、強制貯蓄させられた貯金の返還等を請求しました。裁判所は、別会社論や、請求権協定で請求権は消滅した等の理由でその請求を棄却しました。しかし、元徴用工が不法な強制労働を強いられたという事実は認定しました。
 軍人・軍属として動員された人たち、その遺族が起こした訴訟の支援も行いました。被害者原告たちは、賃金の未払い、遺骨未返還、戦死公報不送付、戦傷病者戦没者遺族援護法の給付金不支給、靖国無断合祀、等の被害を受けていました。戦争に動員しておきながら、戦死した事実も遺族に知らせず、遺骨も返さず、靖国神社にだけは遺族に断りなく「創氏名」のまま合祀した、こんな被害例が幾つもありました。遺族は、戦後も帰ってこない夫、父、兄を待ち続け、生死不明のため葬儀を行うことも、墓をつくることもできなかったという例もありました。
 しかし、裁判所は被害者の訴えを棄却しました。理由としては、時効、日韓請求権協定による請求権消滅などがあげられました。
 これが「内鮮一体」、「一視同仁」、「皇民化」政策の実態、なれの果てです。
 忘れてはならないのは、これらの戦争は「大元帥」たる天皇の名のもとに開始され、戦われた戦争であったという事実です。そして、労務動員であれ、軍事動員であれ、朝鮮人は同じ「皇民」、「帝国臣民」として動員されたのです。朝鮮人が、このような扱いをされた淵源は、当然のことながら日本の「韓国併合」にありました。併合条約には、「兩國間ノ特殊ニシテ親密ナル關係ヲ顧ヒ相互ノ幸福ヲ增進シ東洋ノ平和ヲ永久ニ確保セムコトヲ欲シ此ノ目的ヲ達セムカ爲ニハ韓國ヲ日本帝國ニ倂合スル」と書かれていました。しかし、朝鮮植民地支配は、人々に「幸福の増進」をもたらしはしませんでした。「東洋の平和」を確保するどころかアジア全域を戦火にまきこみました。そして、この韓国併合も、天皇の名の下に強行されたのです。
 天皇という存在が、朝鮮半島の人びと、韓国国民にとっていかなるものであるのか。私たちは、このことを上記の事実を踏まえて考え、問うていく必要があると思います。
 現行の日本国憲法は、1946年の第90回帝国議会で制定されました。
 この第90回帝国議会に出席し、日本国憲法制定に関わった衆議院議員は、同年4月10日の戦後第1回総選挙で選出されました。この選挙は、前年45年12月に成立した改正衆議院議員選挙法に基づき実施されたものです。この改正法は、一方で女性の参政権を認めるなど戦後民主化を反映したものでしたが、他方で植民地出身者と沖縄県民等の参政権「停止」を含むものでした。その結果、憲法制定議会から朝鮮人、台湾人、沖縄県民等は排除されていました。つまり、日本国憲法は、大日本帝国憲法改正の体裁をとりつつ制定されましたが、同じ「皇民」であった沖縄(琉球)、朝鮮、台湾出身者はそこから排除されていたのです。
 こうして制定された日本国憲法が施行される前日の1947年5月2日、日本政府は「外国人登録令」で朝鮮人、台湾人を「外国人」とみなすことにしました。そして、1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約発効の日に、今度は、朝鮮人、台湾人の日本国籍を完全に剥奪しました。
 確かに、1945年8月15日の日本の敗戦により、朝鮮は解放され、実質的に独立を回復していました。ただ、日本政府は朝鮮の分離独立はサンフランシスコ平和条約第2条によるとの立場をとってきました。しかし、「皇民」たる朝鮮人については、「分離独立」前に、先ず選挙権を停止し、続いて「外国人」扱いにし、最後に日本国籍を剥奪するという手続きを一方的に進めました。彼らに「国籍選択権」は与えませんでした。
 このように沖縄県民や植民地出身者を排除して制定した日本国憲法の第1条で、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であると規定され、その地位が保障されました。戦犯として責任を問われることも、朝鮮植民地支配の責任を追及されることもありませんでした。それどころか「象徴」という地位が与えられたのです。
 ただし、その地位はあくまで主権者たる「日本国民の総意」に基づくものとされました。また、「国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」(第4条)とも規定されました。しかし、いずれにせよ、現行憲法は一方で国民主権を謳いながら、他方で天皇には特別の地位を保障したのです。
 このような天皇と植民地出身者に対する扱いの圧倒的な非対称性を見るとき、この国が過去の植民地支配について清算していないことが分かります。
 このような中、2016年から2020年にかけての「天皇代替わり」のプロセスを見るとき、違和感を覚えざるを得ません。
 2016年8月8日、明仁天皇(当時)はNHKを使って「天皇メッセージ」を明らかにしました。それは、高齢により「公的な天皇の務め」が困難となったので、「生前退位」を望む、というものでした。「生前退位」は皇室典範に規定はなく、それを実現するためには法改正が必要となります。つまり、憲法上、「国政に関する権能を有しない」はずであるにも拘わらず、明仁天皇は、事実上国会に対し法改正を求めたのです。これは明らかに、憲法の規定を逸脱する「政治行為」でした。
 しかも、そのメッセージは、憲法、法律上の根拠を持たない「天皇の公的な務め」をさらに継続するという意図から出たものでした。明仁天皇は、被災地訪問-被災者激励、戦地巡礼などの「国事行為」いがいの「公的な務め」を積み重ねることにより、象徴天皇としての地位を確立し、天皇制の安定的な存続を図って来ました。
 それは成功裏に進み、国民の広い支持を得てきています。明仁天皇はそれを踏まえ、「生前退位」して自らが生きているうちに、次の天皇にそれを継承しようとしたのです。憲法上、天皇が国民のために行うべき行為と定められているのは「国事行為」(10事項)だけです。
 しかし、明仁天皇夫妻は、それを実行するだけでは象徴天皇としての地位の安定、国民への浸透は図れないと考え、「公的な務め」の範囲を広げて来られました。そして、それを継続していくために「生前退位」を行う、これは憲法の規定から外れる行為と言わざるを得ません。
 また、「代替わり」の過程で執り行われた一連の儀式は、そのほぼすべてが宗教(的)儀式でした。「退位」、「即位」に関わる儀式は、退位・即位を天照大神などに報告し、それに伴って三種の神器を返上したり、受け取るという儀式であり、大嘗祭は新天皇が初・新穀でつくった酒などを天照大神などに捧げる神事にほかなりません。それを政府主催の行事、国事行為として執り行うなどということは政教分離に反する行為と言うべきです。立皇嗣の礼も同様です。
 私は、上記のとおり「代替わり」とそれに伴って実施された儀式は、いずれも憲法の規定を逸脱するものであると考えます。
 私は、国民の「象徴」としての天皇は、あくまで憲法の規定に基づいて行動するべきであると考えます。
 植民地出身者に対しては今も、公然たる差別が政府自身によって行われています(高校無償化からの朝鮮学校除外など)。また、私が支援した韓国人元徴用工、元軍人・軍属、その遺族らの訴えを棄却したことは、明らかに憲法14条や29条などに反するものであると確信しています。
 私は、一方で天皇に対しては「超法規的」な振る舞いや違憲の「代替わり」儀式の挙行が容認されつつ、他方で元「皇民」であった韓国人元徴用工や軍人・軍属らに対しては、その切実で、根拠のある訴えが易々と切り捨てられることを理不尽と考え、恥辱であるとも思っています。
 裁判長におかれましては、上記の陳述を受けとめていただき、一連の「代替わり」の儀式とそれに対する国費の支給を差し止めるご判断を下していただきますようお願いいたします。