即位大嘗祭 国賠訴訟 次回期日は7月5日です

国賠訴訟の次回期日が指定されました。

次回期日は、以下の通りです。
期日:7月5日(月)14時30分~
法廷:東京地方裁判所103号

法廷の傍聴人席は、一つ置きの配列で、傍聴者が入っても過密にならないようになっています。なお前回は傍聴券は発行されませんでしたので、気軽に傍聴が可能です。ぜひとも法廷を傍聴者で埋めていきましょう。

即位大嘗祭 国賠訴訟4/14

4月14日午後14時30分から、本件の即位大嘗祭国賠訴訟が行なわれました。この日の裁判では、原告の桜井大子さんから、意見陳述がなされました。

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意見書

桜井大子

 私たち原告は、皇太子が天皇になるための儀式や行事を国家行事として行うこと、国家行事でなくとも税金を投入したり、国が関わることに異議申し立てするその理由に、憲法で保障されている政教分離原則や主権在民原則、思想良心の自由が大きく侵害されるということを掲げている。そしてこれらが侵害されることに、侵害されたと感じる者は多大な苦痛を与えられている。
 この訴えに対して国は、差止訴訟において「原告らが、人格権として主張するものについては具体的権利性が認められないか、あるいは、その侵害が認められない」と反論した。その理由に、窪田充見編集『新註釈民法(15)』を参考に、「生命・身体・健康、身体の自由及び性的自由の侵害等のように直接支配性ないし独占排他性を備えた権利・法益については、人の生存に不可欠な基本的法益であって、絶対的保護が要請されるのに対し、それ以外の権利・法益については、特定の態様による侵害に対してのみ保護されるなどとされているように、一定の侵害が認められることが必要とされている」とし、原告の訴えに対して「本件諸儀式等は、個々の国民にむけた行為ないし処分ではなく、個々の国民の人格権に対する圧迫・干渉を生じさせるようなものでもないのであって、そもそも、その性質上、原告らの人格権に対する侵害を生じる余地がない」と述べた。
 踏みつけられた者の痛みは、踏みつけている者には理解できない。その典型的な答弁に聞こえる。
 私は、天皇即位関連儀式はすべて「個々の国民にむけた行為」であると考える。そうでないならば、一体どういう行為なのか。原告らの納得が得られるような説明を願いたい。
 なぜ、「国民こぞって祝う」といった政府の言葉がメディアを通して流されるのか。なぜ「祝意」の表明について、「国民」にあまねく知らしめるような形で文科省から自治体や学校に通達を出すのか。期待されることは「個々の国民」がこぞって祝うことではないのか。そして、なぜ、それに異議申し立てする人々に対して、天皇を信奉する人々は、暴力的な態度で挑んでくるのか。なぜ警察は彼らの暴力を見逃すのか。
 国が関与し、国費を使った盛大な儀式は、国の関与と税金投入というだけで絶大な価値と正当性が付与され、天皇即位のための諸儀式は行われるべきという考えに多くの人を誘導し、そういった認識を強くさせる。そしてこの諸儀式は豪華絢爛、かつ「厳か」で、権力者たちが居並ぶようなものであればあるほど、その効果はより大きくなる。だからこそ、そのような儀式を模索し、その儀式の様子はマスメディアやSNS、街頭の大型ビジョンなどを通して、多くの人々が目にするようになされるのだ。
 その逆ベクトルとして、そういった儀式とその映像化や広報は、天皇制や天皇のための諸儀式に反対する個々の人々の口を封じる力に大きく貢献している。異議申し立てを表明する人々に対し、儀式を当然と考える人々の一部からは「非国民」「日本から出て行け」「殺せ」といった言葉が実際に投げつけられているのだ。その立場にある私たちはそのことを強く肌で感じている。国が関与し税金で行われる儀式が、異議申し立てする個々人への圧迫・干渉へとつながっていることは間違いない。
 天皇は国の制度の中に位置づいているので、国は法が許す範囲で天皇という制度に関与することになるだろう。同時に、国の制度であれば、その制度への異議申し立てが出るのも当たり前である。それは主権者の権利であり、しかもそれらが違憲・違法であると考えた者がそれを表明することは、そう考えた者の義務でもあろう。だから多くの人たちが異議ありの声を上げた。
 なぜ、天皇が代替わりするというだけで、これだけの高額の儀式を行う必要があるのか。今回の天皇の「退位」と「即位」は、言うなれば天皇職の交代であり、一般的には「辞任」と「就任」と呼ばれるものである。通常ならば辞令を出しておしまいであり、お疲れさま会と就任祝いが行われる程度だ。国家公務員並みのそれを行い、ベタ記事程度の報道でも十分すぎるような話であると思う。そのように思う個人が少なからずいるのだ。だから、各地でこの即位関連行事に異議申し立てする人たちの声が上がった。そしてやはり、その声に対しては脅迫まがいの圧力を感じさせる現実がある。その異常さに恐怖を感じない方がおかしい。
 またこの恐怖は、直接目の前にある脅迫や暴力以上に、それらの脅迫や暴力を導き出し、その脅迫・暴力に正当性を与えているかのような錯覚を作り出す、天皇を絶対的存在と思わせるような形でなされる諸儀式や、それを作り出す国のあり方に対する方が大きいということも、付言しておきたい。
 法を超えていると思われる儀式が莫大な税金を投入する形で執り行われ、天皇即位に祝意を表明するための「祝日」が制定され、私たちの代表としてある首相や閣僚、国会議員等々が最敬礼する形で天皇の宗教儀式に臨むことに、私たち原告は、自らが信じる主権在民原則や平等主義、政教分離原則が踏みにじられることに怒りや恐怖とともに、大きな痛みを負うている。だからその違憲性を訴え、儀式の中止を求めたのだ。
 近代天皇制の戦争の歴史や、戦後の現在に至るまでの天皇を象徴とする制度が持つ身分制による差別構造、宗教性、世襲制度、男子主義等々に対してまったく合意できない人々、それらを違憲の制度であると考える人々がいる。天皇制反対の意思表明をしている人は世論調査でも1割近くいるのだ。そのうちの数人である個々人が原告である。憲法で認めた範囲を超えて、あるいは憲法の範囲内であったとしても、そのように合意できない部分を内包する天皇の儀式に国が多大な税金を投入し、「祝日」とすることで「祝意」を強制し、主権者や国の代表が「臣下」として天皇の儀式に関与することは、違憲で理不尽な行為であることを、この国に生き、社会的責任ある存在として、思想・良心に基づく痛みを根拠に訴えている。
 現憲法が保障する、政教分離原則、主権在民原則、平等主義、思想良心の自由を信じ、それらをよりどころに日々生きている者が、「天皇即位関連行事」によってその全てが踏みにじられたと考えている。これは、具体的な権利性の侵害であると考える。また、人は目に見えるものだけを糧に生きているわけではない。憲法は、目に見えない権利も、人が生きるに必要な具体的な権利として保障しているはずだ。その目に見えない具体的な権利侵害とそれによる痛みをも、どうか読み取っていただきたい。

以上